#27 消費と生成の感情論

活動は、消費と生成に分かれる。例えばゲームは、「プレイする」と「製作する」。食事は、「食べる」と「料理する」。本は、「読む」と「書く」。スポーツは、「見る」と「プレイ」する。仕事にも散見される。「仕事を発注する側」は消費、「手を動かして何か成果物を作る側」は生成。例えばWEBビジネスでは、経営や営業層が、デザイナやエンジニアが生成した成果物を消費する。寿司屋は、オーナーが、寿司職人の生成した成果物を消費している。同じ会社じゃなくても、税理士に申告書を作らせれば消費と生成の関係が発生する。また、手を動かさず、指示を出して成果物を受け取る上司部下の関係は、消費と生成だ。

おれはできるだけ生成側に回りたい。というか圧倒的に。以下が理由だ。

1.本質的な価値は、生成側にある。寿司屋の価値は寿司職人が作る寿司で、WEBサービスの価値はエンジニアが作るWEBサービスだ。メーカーが作る価値は技術者が作る製品で、公認会計士事務所の成果物は専門知識と判断から醸成されるレポートや業務処理それ自体だ。「仮にどちらか一方しか当該会社に残れない」と仮定すると判断がしやすい。

2.金は、消費側から生成側に移転する。上の例を見てもらえばわかる。いずれのケースにおいても、消費側が生成側に、金を払う。世の中は過度に複雑で、価値を生んでいない消費側が生成側に比べ資金的余裕がある場合も散見されるが、俯瞰し長期的に見た場合、生成側に富が集まる、ないしは、安定的に富を集めることができる。

3.人は、何かを生成したとき、そして具体的に何か新しいものを生成できるようになったとき、本能的に喜びを感じる。でなければ、原始生活が現代社会まで発展しない。自明だ。

ただ、世間にはびこる、「ラクしたい=やることをできるだけ少なくでもやってる感&満足感は得たい」というクソ願望に従って、生成を疑似体験できるような消費に没頭しがちだ。レジャー目的だったらまだ微笑ましいが、仕事現場で、なんら生成せず、消費を続け、それに気づかず、老いさらばえた奴隷型サラリーマン = 人の金(株主の金だ)で消費をさせてもらっている人間が、部下や外部専門家へ指示だけ出して、それを「マネジメント」とか「ディレクション」とか偉そうに言っている様子 を見ると、侮蔑と殺意の念で頭がおかしくなる。価値は生成している人間にある。その他は全て中抜き要素だ。忘れちゃいけない。

・・・ともかく、生成するプロセスと生成できるものが増えるプロセスは、喜び(仕事でいうと満足感)に満ちている。論理的にも生成へのコミットが王道だ。従っておれは、できるだけ自分で手を動かして何かを作る。

以上、感情論的生成論。